2015/07/11

非道に生きる

「映画の外道、映画の非道」を生き抜きたい。その気持ちは、自分の人生そのもの。

園子温『非道に生きる』を読んだ。園子温監督の回想録。非道であれ!「自分が面白いと思った事を追求」すればいい。満足度★★★★★。

園子温『非道に生きる』

園子温監督の映画はこれまで『紀子の食卓(2006年)』『愛のむきだし(2008年)』『冷たい熱帯魚(2011年)』『恋の罪(2011年)』『ヒミズ(2012年)』を観た。フクシマ原発事故を題材にした『希望の国(2012年)』が気になっていたがまだ観れていない。今ちょうど『ラブ&ピース』が上映中。観てこうかな。

鬼才、園子温監督が「自分の半生」と「映画」について語る。異端という言葉がよく似合う「普通じゃない映画」がなぜ生まれるのか。その「思考プロセス」と「行動プロセス」がわかり、とても面白かった。逆に、この本を読んだり、監督の話を聞かないと、園子温映画の「特殊性」は理解できないな。「異端、過激、エログロな映画」と言われたり、「性、暴力、震災」が映画テーマであったり、「詩」が多用されたり(『愛のむきだし』での圧巻シーン!)と、なぜWhyの部分。

「普通な人」が作った映画は、もちろん面白くない。「普通じゃない人」が作るから、面白い映画になる。「極端だから、人をひきつける」という本表紙の副題は、そのことを指している。

前世紀「大量生産・大量消費」の時代には、製品だけでなく、文化も、ばらつきの少ない、均一なモノを求められた。それは「ハズレが少ない」が、逆に「無味乾燥で面白くない」もの。そこでは品質安定のため「異端」は極力排除される。しかし、「モノ」は均一性を高められても、人間そのものは、そもそもがファジー(Fuzzy、あいまい)な本質を持つ存在だから、矛盾により「歪み」が現れるのは必然。

「クズ同然」と言われたらしい園子温監督の人生前半は、順応するのではなく、そんな「歪み」に立ち向かう。その「もがき模様」をイメージしながら読んだ。その無茶苦茶な人生経験のほとんどが、のちの映画作品に反映されるから、映画の世界は面白い。「東京ガガガ」のエピソードが強烈に印象に残った。

移り変わって、現在、21世紀の「脱工業社会」では、「多様性を重視」する成熟社会への移行期として、何かと「普通じゃないもの」が求められる。製品しかり、文化しかり。そういう意味で、園子温監督の映画は、まさに「21世紀タイプ」。時代が追いついてきた、という感じか。

本の中で、「世界に影響を与えた日本映画界の巨匠」ということで、小津安二郎、黒沢明、木下惠介の名前が出てくる。これらの「巨匠の作品」つまり「日本の黄金期の映画」は全然観てないので、毎週どんどん公開される新作とは別に、21世紀に生きる日本人としてこれらの映画も観てみようと思う。

そして、「映画⇒研究開発」と置き換えると、「21世紀社会でのエンジニアの役割」が見えてくると思う。


異端モノ
普通でないが
面白い


【園子温語録】

・「園子温の映画は血が凄い」とよく言われる。血は詩と同じ。映像でどう「血のように赤い」を表現するか。詩的な比喩として血を登場させる。ポエムなのだ。詩で使われる比喩の表現を文字通り、映像に叩きつける。

・「映画が巨大な質問状」であるからには、反応は観客の想像力に委ねる。映画の中で想像力を誘導したりしない。僕は映画の中でたくさんのことをしゃべるが、そもそも「答え」は用意していない。

・「リアリティ」に触れるための取材が好き。取材とは第一に「人に会う」こと。文献や資料はいまいち信用できないし、「本音」がでてこない。実際に現地で人に会うと分かってくることがたくさんある。

・映画に込めるべきは「情報」ではなく「情緒」。整理整頓された言葉を仕入れたいのなら、本を読めばいいし、報道を観ればいい。映画の中の言葉は、市井の人々の肉声でいい。

・役者に「それはお前の人生経験がユルいからだ」と忠告する。

・映画に期待される役割は二つ⇒「満足させる映画」「覚醒させる映画」。政治、社会、人生に対する要求不満を解消、要求のはけ口となってすっきりさせるのが「満足させる映画」。まったく逆で、見たくない暗部を見せることで、人を怒らせたり苛立たせたり、感情を逆なでして緊張を生み出すのが「覚醒させる映画」。両方を撮っていきたい。

・「家族」という小さな血縁共同体、その崩壊が物語の太い柱になっている。「絆」というよりも、歳月を経ても決して消し去ることのできない「血の関係」。それこそが一番強いドラマになりうる。

・「特殊じゃない人」はいない。自分達は「ありふれた幸せ」を望んでいたのにも関わらず、そいういう幸せは手に入らない。つまり「平均値の家族」になれない。なのに「うちの家族だけは平均的な家族だ」と思い込むようにしている所がある。「家庭内に特殊性が潜んでいたとしても、目をつぶっていかなくてはならないと思い込んでいる」ことが、すべての問題。「自らが特殊であることを認め、受け入れ、お互い許す」ということが革命的に行われたならば、家族は本当に内側から変われる。


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